どちらかといえば、伝統を重んじるよりも、革新を好む人間だ。妻もぼくも成人式は行っていないし、今年ついに紙の年賀状がゼロになったことも、わが家のグッドニュースとして受け入れた。
そんなぼくらでも、お宮参り、お食い初めなどの、こどものための伝統行事は行っている。いよいよ今年5月には初節句を迎える。妻の実家からお祝い金の支援もあり、鯉のぼりと五月人形を飾ることにした。どんなものを買うか調べ始めると、選択肢が多く、選ぶのはなかなか難しい。
古臭いものは避けたいけれど、今っぽすぎるデザインも、なんだかありがたみが薄れるような。そんなことを考えながら選んでいく。そして、どの品物にするかと同じくらい、どこに飾るのかも一筋縄ではいかない。
とくに鯉のぼりの飾る場所を決めるのには時間がかかった。家の外壁に取り付けるか、庭にポールを立てるか、小屋の屋根に引っかけるか。思いつくかぎり場所を検討した末、室内に飾ることにした。リビングが吹き抜けになっており天井高が7メートルあるので、その構造を活かし、2階の天井から1階へ垂らすことに決めた。
家に届いた鯉のぼりをさっそく飾ってみると、とても清々しく、気持ちいい風が吹いているように感じる。
「鯉のぼりって、100年後もあるのかな?」
天井から垂れる鯉のぼりを見上げながら、そんな話になった。そもそも鯉を宙に浮かばせ、竜になって天へ昇っていくように、こどもの成長や出世を願うこと自体が、なかなかの理屈だ。それでも江戸時代から令和まで、鯉のぼりは300年以上も泳ぎ続けてきた。
「残すべき伝統と、変えていくべき伝統のちがいって何だろう?」
夫婦で話しても、ますますよくわからなくなっていき、鯉のぼりを飾った気持ちよさだけが空間に漂う。ぼくらの両親は、どう考えていたんだろう。ふと気になって妻の母に聞いてみると、こんなメッセージが返ってきた。
伝統とか宗教とか文化とか習慣みたいなのって
参加自由な集団みたいな感じ クラブ活動みたいな
でもたくさんの意識が集まっているから
それなりのなんらかの力みたいなものが存在してる感じ
これ答えになってる?
妻の母は詩人のような感性を持っており、「そんな感じ方があるのか」と視野を広げてくれることが多い。息子がNICUに入院していたときも、「みんなそれぞれ自分だけの物語の始まりがあるねぇ」ということばに、どれだけ心が救われたことか。
鯉のぼりや五月人形というモノ自体に価値があるのではなく、その参加自由な集団に身が入っていく行為に気持ちよさが生まれ、理屈をこえた「なんらかの力」が働くこともある。義母のことばに触れて、そのように感じた。
理屈や強制でないからこそ、長い年月をこえて受け継がれていく、力を持つことがある。
扇風機でゆらゆらと動く鯉のぼりを眺めながら、「人間は理屈じゃ動かない」これって、人間だから持つことができる複雑さであり、救いでもあるよなと嬉しくなった。人を動かすことばを職業にしている、じぶんが言うのも変かもしれないけれど。
©︎kengai-copywriter 銭谷 侑 / Yu Zeniya
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