この夏は、今までの人生でもっとも海で遊んだ夏だった。
海の近くに住んでいるので、日差しが穏やかなタイミングを見計らって息子を海に連れていくのだが、その度に感情のリミッターが外れるような反応をする。
まだ抱っこ紐をつけていた0歳のときから、海辺を散歩すると「うぉーうぉー!」と興奮気味に声をあげていたし、2歳近くなった今は海が見えると「じゃぶーじゃぶー!」と大喜びし、車から降りると一足飛びに砂浜に駆けていく。
米粒ほどの小さな蜘蛛や、お風呂のガラス扉についた水滴の模様には怖がるのに、じぶんの背丈よりも大きな波には大興奮しながら突っ込んでいく。太古より人と海は繋がってきたからなのか、生得的に海という存在には魅力を感じているようだ。
そして波だけでなく、息子は海辺のあらゆる環境を舞台につぎつぎと遊びを繰り出し、延々と遊んでいる。
砂をバケツに詰めてひっくり返しては「あいしゅ(アイス)」と喜んだり、クレームブリュレの表面みたいに固まった砂浜を両足でパリパリと割ってみたり、砂上にうつぶせになって平泳ぎしてみたり、流木を手にとりスナガニが掘った穴をほじくってみたり、毎回ちがう遊びを発明するので見ていて飽きない。
海と遊んでいるときは、こどもが意思を持って動いているというよりも、心も頭も空っぽにしながら、海という環境に巻き込まれていくようにも見える。(じっさいに、波にのまれそうなときもある)
「遊び」とは、ゼロから湧き上がってくる能動的なものでも、誰かに用意された筋書きで遊ばされるような受動的なものでもなく、環境との関わりの中で自然と生み出されていく中動態的なものなのかもしれない。
夕方早めに海に来たはずのに、気がついたら19時を過ぎていた日があった。
風がサーフィンには不向きなのかサーファーが人っこ一人おらず、薄暗くなってきた外房の釣ヶ崎海岸には、息子と妻とぼくの3人しかいない。しっとりとした風が吹き、深いブルーに染まりゆく海は、遊びの果ての景色だった。
じゃぶー、じゃぶー。
偶然のプライベートビーチで、寄せては返す波を追いかけたり、追いかけられたりしていると、人と海の関係そのものが能動と受動が入り混じる、中動態の象徴のように思えた。
©︎kengai-copywriter 銭谷 侑 / Yu Zeniya
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