物理法則を超える生き物 / 育休46-47週目

物理法則を超える生き物 育休46ー47週目

 どちん。どちん。どちん。
2歳に満たない幼児が歩いている姿は、よくよく見ると不気味だ。

 まだつかまり立ちをしていない息子の相手を、毎日しているからだろうか。ぷにぷにした短い脚で、4頭身の生き物が直立歩行している姿を町中で見かけるたび、何かしらの物理法則に反しているように感じた。

 「あぁ身体が重くて起きられない」子育ての合間にいったん床に寝そべると、大人だって立ち上がるのは大変。あまりの頭の重さに、もしじぶんが幼児体型だったら絶対に立てないなぁと天井を仰いだことも。

 生後10ヶ月をすぎたばかりの夜。息子は、はじめてつかまり立ちをした。
脚で立つというよりは、ベビーサークルのガードをつかみ、腕力で体重を支えるような不安定な立ち方。プルプルと力が入っており、写真を撮る間もなく、ほんの数秒で崩れ落ちた。9キロを超えた体重を小さな身体で支えるのは大変そうだ。 

 ただそれからの進化はめまぐるしかった。日に日にこわばっていた腕の力はほどけていき、片手を離して立ったり、つたい歩きをしたり、音楽に合わせておしりを振ったり。腕でつかんで立つのではなく、重心を安定させて、足で地面をつかむような立ち方に変わっていった。

 「あ、重さは障壁ではなく、立つための力でもあるんだ」中高の物理で学んだエネルギーの法則が、今さら腑に落ちる。脚も筋肉もない石ころや卵だって、重さがあるから立つのだ。

 筋力で重さをねじ伏せるのが独り立ちする術ではなく、天から与えられた力をありのままに発揮したときに、人は自らの脚で立つことができる。そう世界を捉え直すと、不気味に感じていた幼児の立ち姿も、天からの恵み受けて地球とダンスをする天使に見える、と言ったらちょっと大袈裟すぎるか。

 神々しくもある息子のつかまり立ち姿を眺めていると、これは物理だけではなく、精神的な重さにも当てはまるのではないかと思うようになった。家族が増えると、いろんな重さを感じる瞬間がある。たとえば東京に用事があり、外房にある自宅を出るときの重さは象徴的だ。

 妻が息子の相手をしながら慌ただしく見送ってくれる姿を見ると、「これが最後の姿になるかもしれない」と一瞬頭によぎる。その時の玄関扉の質量は、独身時代には知らなかった種類の重たさだ。

 けれど「行ってくるね」とドアを閉め、電車に乗り自宅から離れていくと心の重たさは足枷ではなく、むしろじぶんを大胆にジャンプさせるような土台のようなものに変わっていく。

 人生の限りある時間を費やすのだ。せっかくなら家族と過ごす時間に引けを取らないくらい、いい時間にしよう。じぶんが成長すれば、もっと妻や息子を愛せる人間になれるかもしれない。じぶんの仕事が、未来を生きるこどもたちに希望をつくれるかもしれない。

 そんな大それた感情が心に湧き上がり、東京に着く頃には、どうせならもっと精一杯生きてやれと意を決している。家庭を持つ重さは、家族を結びつける内心円に働くこともあれば、人生をより遠くへ飛ばす外心円に働くこともあるらしい。

 しばらく家をあけてから帰宅すると、息子の機嫌がいいときは、床を泳ぐようにズリバイで近寄って来てくれる。その瞬間、身体や心の疲れがすべて吹っ飛んで、あらゆる重さがなくなる感覚になる。そうかと思いきや、手を洗って抱き上げると、びっくりするくらい重い。

 やはりこどもは、何かしらの物理法則に反している。

©︎kengai-copywriter 銭谷 侑 / Yu Zeniya
ほぼ毎週「育休エッセイ」更新中 → 一覧はこちら