庭に大きなレモンの木が生えている。
もともとこの土地に住んでいた老夫婦が植えたもので、毎冬200個をこえるレモンが収穫できる。
じぶんたちでは食べきれないので、来客へのお土産にしたり、フリマアプリでお裾分けしたりして、春前までには使いきるようにしている。無農薬レモンは市場に出回ることが少なく、地味に人気がある。極小なレモン農家として活動するのが、冬場のちょっとした楽しみになった。
レモンが身近な存在になってから知ったのだが、米国では夏になると子どもたちがレモネードをつくって売る「レモネードスタンド」という文化がある。おこづかい稼ぎをしながら、起業家精神やビジネスセンスを磨く機会にもなっているらしい。
息子がもう少し大きくなったら、このレモンの木で自由に遊んでもらえたら、何か大切なことを学べるかもなと漠然と感じていた。
時を待たずして、息子がこのレモンの木で、価値をめぐらせるできごとがあった。
ある日、息子を抱いて庭を散歩していると、お隣さんから「これお子さんに」と、おしゃれなよだれかけをいただいた。
お返しについて夫婦で話しあい、「レモンをあげよう」ということになった。レモンを摘み取り、紙袋に入れて持っていく。お礼を伝えながら手渡すと、「ブロッコリーも獲れたので持っていって」と、大量のブロッコリーをいただいてしまった。
両手いっぱいにブロッコリーをもらって帰ってきたぼくをみて、妻は声をあげて驚いた。お返ししにいったはずが、ちがうかたちになって返ってくる。与えるつもりが、与えられている。このレモンもブロッコリーも市場に出回ることはなく、経済指標にも換算されない存在なのに、じぶんたちをとても豊かに満たしてくれる、価値のあるものに感じた。
その時、息子にレモンの木で自由に遊んでもらいたいと思っていたのは、「ビジネスを学んでほしい」のような理由だけではないことに気づく。
「自然が人間にさしだしてくれたるもの」を上手に受け取って、生きる気持ちよさ。
そして自然の側からの無償の贈与があるおかげで、無から有が生まれ、自然から人へ、人から人へ、富の増殖がおきていく豊かさ。人間には、そのように感じることができる「情緒」があることを、息子と共有したかったのかもしれない。
人間だからこそ持つことができる、自然への回路や情緒があるからこそ、まっとうな経済を回すことも、美しい歌を歌うことも、心を震わす言葉を紡ぎだすこともできるのだと、最近は強く思う。
今のぼくはそのように感じているけれど、もう少し大きくなった息子は、どのように感じるのだろう。たとえ、レモンの木に何も興味を示さなくても、それはそれでいいと思う。自然は、その年齢その年齢に合わせたことを教えてくれる。
©︎kengai-copywriter 銭谷 侑 / Yu Zeniya
ほぼ毎週「育休エッセイ」更新中 → 一覧はこちら
参考図書:今回のエッセイは、『岡潔の教育論』に影響を受けて書きました。とくに巻尾の解説文が素晴らしいです。ぜひ読んでみてください。