ことばにする前のみずいろ / 育休34-35週目

ことばにする前のみずいろ 育休34ー35週目

 息子にはお気に入りのおもちゃがある。
みずいろの渦巻き模様が描かれた円柱の積み木。ぼくら夫婦は、ウズマキ君と呼んでいる。数ある似たような積み木の中で、執拗にウズマキ君ばかりを手にとる。

 こっそりと小さな実験をした。ウズマキ君だけを隠し、青緑色で同じような模様が描かれた積み木を目立つところに置く。色は少し異なるが、見ようによってはみずいろにも見えるので、ウズマキくんと勘違いして手にとると想像した。けれど、しばらく待っても一向に興味を示さない。

 試しにウズマキ君に置き換えてみると、すぐに両手で抱き抱え、笑みを浮かべる。人は色の名前を知る前から、色を識別できるし、好みもあるらしい。むしろ「みずいろ」ということばを知らないからこそ、目の前にある存在そのものの色を感じているのかもしれない。   

 大人だったら「空はみずいろだよね」とことばにした途端、 想像上にあるみずいろが空の色となり、ありのままの空の色が見えなくなることがある。息子が好きなのは、みずいろではなく、ウズマキ君が発する色。みずいろという概念に縛られず、ことばにする前のそのものを見ている感覚は、なんだか羨ましくもある。

 息子を見習い、ことばをはずして日常を過ごしてみることにした。いざやろうとすると、中々にむずかしい。すぐに身体からことばが出てきてしまい、既知のイメージで世界を見てしまう。先日、久しぶりにケンタッキーを食べたときも、チキンを口に運ぶ途中で「うまい!」と先に声を出していた。

 そんな頭でっかちなぼくでも、ことばが外れやすい瞬間がある。毎日ひとつずつ、あたらしい食材を試していく離乳食の時間。はじめての食材を口に入れたとき、息子は身動きを一瞬止め、どんな味かを吟味することに集中する。まだ食材の名前も、味覚や食感を表すことばも知らないから、ことばにする前の感覚で味を確認していく。    

 息子が口の中に未知の食材を入れ、飲み込む前の沈黙。その何秒かの無言状態は、ぼくの体内からことばが溢れでそうになるのを、喉元あたりでいったん止めてくれる時間でもある。彼の新鮮な反応に触発され、じぶんも改めてその食材をはじめて食べるような感覚に誘われる。

 「お米って、イメージしてたよりもむちゃむちゃと粘り気があって甘い」「イモは、もしゃもしゃして喉につっかかるな」「白身魚は、ボロボロと固形物感があって、独特な臭みがある」。息子がそう感じているかはわからないが、彼の反応を通してじぶんが思い込んでいる世界がちょっとずつ変化していく。離乳食後は、白米は甘く感じ、スイカにはさらに歯応えを感じる新たな日常を生きている。
 

 こどもと一緒に生きることは、ことばにする前の日常と、もういちど出会い直せるチャンスで溢れているのだ。ことばにする前のことば──ことばにならないことばを育むことは、その人ならではの世界の見方を育て、結果的にその人自身のことばを育てる行為でもあると思う。


 冒頭にウズマキ君について書いたが、対照的に苦手なおもちゃもある。
積み木と一緒にぼくの両親から贈られてきた、アンパンマンのキャラクターが描かれた大きなボール。何日間もリビングに置いといても、見慣れないらしい。近くに寄せると、危ないものを触るかのように指先で触れ、見えないところに放り出してしまう。

 息子にはどう見ているのだろう?ことばを外してアンパンマンのおもちゃを見ようとする。球面にはアンパンマンのさまざまな表情がぎっしり描かれた、曼荼羅のようなデザイン。原色と原色がうずまく様相は、物静かなウズマキ君の存在とは対照的だ。息子よ、きっと君の感覚は限りなく純粋でまっとうだ。



©︎kengai-copywriter 銭谷 侑 / Yu Zeniya
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