生後6ヶ月を過ぎてから、夜泣きがはじまった。
体重は出生時から倍になり、感情もどんどん豊かになった。機嫌が悪いときは手や足を床に叩きつけたり、親の顔を引っ掻いてきたり、まるで怪獣みたいに暴れることもある。
いまだ不快や不安をことばで表現できないにしても、「そんなに泣かなくてもいいのに」と思うくらい暴れ倒している息子を見ると、人にとって暴力性はとても根源的なものだとわかる。人の内面にはもともと怪獣が存在しているのだ。
そして暴力性は、人から人に伝播することがある。こどもが暴れているときこそ、感情に飲み込まれないようじぶん自身に言い聞かせているのだが、親にだって心に余裕がないときくらいある。ある夜、どんなにあやしても泣きつづける息子を前に、手で口を塞いでしまおうか、激しく揺さぶってしまおうかと、ほんの一瞬、頭をよぎることがあった。
もちろん実際に手を出すことはしないし、できない。けれどその光と闇は深い溝で区切られてはいるが、一寸先には確実に存在しているものだと思う。やがて息子が落ち着きをとり戻し、家庭に静寂が戻ってくると、なんてことを想像してしまったのかと罪悪感をおぼえる。
妻にそう思ったことがあると打ち明けると、感情自体はわかると言う。
じぶんの内にある暴力性をなかったことにするよりも、あるとあっさりと認めてしまい、暴力性の健やかな表現の仕方を探るほうが、ぼくにはずっと気楽に感じる。
無理やり押し込めてしまうと、ひょんなことから暴力性の行き場を失った怪獣たちが暴れ出し、だれかを攻撃するような、まちがった表現に向いてしまうことがあるのだと思う。ぼくは暴力性のしっぽのようなものがさわさわと胸をくすぐりはじめたら、庭に出ることにした。
ガーデニングは、創造的である以前に、じつは破壊的な行為で満ちている。バッサリと枝を切断したり、大量のナメクジを殺したり、増え過ぎた球根を根こそぎにしたりする。破壊的になることが許され、むしろ必要とされ、庭が成長する過程に埋め込まれている。
庭仕事をした後は、人の内にある暴力性やあらゆる異物な感情が土壌に飲み込まれ、まっさらに取り除かれ、同時に新たなエネルギーが加えられている気分になる。人の暴力性が、庭を通して、新しいエネルギーに変換されていくのだ。
ふと「家庭」という文字に「庭」ということばが入っているのは、人間関係の中に閉じず、ひらかれた場であることの大事さが込められているのではないかと思った。じっさいに庭があるかどうかはさておき、庭的な存在が、家族には救いになる。人と人の間では昇華できないふつふつとした感情を飲み込み、新たなエネルギーに変えるような庭的な存在が。
もしかするとブログにエッセイを書く行為も、ぼくにとっては、さまざまな感情をことばの種として巻き、どう育っていくのかを見守るような、庭的な存在のひとつだ。
春がすぎた庭には、たくさんの草花と鳥で賑わっている。
何百ものスイセンの球根を引き抜いた土壌には、どこからかやってきたイモカタバミという花が咲いた。息子はある日突然、ズリバイができるようなった。じぶんで移動して積み木を壊したり、障子をやぶったり、見える景色をはちゃめちゃにしている。
彼らしい暴力性の健やかな表現の仕方だと思えば、愛しくなる。もっとやっちゃえと見守っていると、瞬く間にリビングの障子がビンゴカードのリーチ状態になった。それにズリバイをしながらお尻をあげた姿なんて、見た目も四足歩行している恐竜そのもの。なんてワンパクで、かわいらしい恐竜なのだろう。
©︎kengai-copywriter 銭谷 侑 / Yu Zeniya
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