考えないことのデザイン / 育休19週目

考えないことのデザイン 育休19週目

 子育て中、いちいち考えていては、やっていられないことがある。

 たとえば、おむつ替えのタイミング。おしっこをすると、おむつのラインが黄色から青色になり知らせてくれるが、困るのはごく少量のとき。もう少し待ってから交換するか判断に迷う。

 もし1日15回、3年間おむつを替えつづけるとしたら総計16425回 。一つひとつは数秒だとしても、堆積すると、人生の中で何時間も「息子のおむつを替えるかどうか」を考えていることになる。

 どうせ考えるのなら「きょうは何して遊ぼうかな」「どんなことを語りかけようかな」のような、楽しいことや創造的なことに時間を使いたい。だからぼくらは、ちょっとでも青色になったら、すぐに替えるようにした。


 「考えてもあまり意味がないこと」を考えないように習慣づけると、脳の負荷が減る。いくつかあるぼくらの習慣の中でも、担当の医師を驚かせたものがある。

 それは授乳の前後で体重を測り、育児アプリに記録をつけ、追加でミルクが必要なときはその量がわかるようにしていること。医師は「そんなに細かく記録をつけて大変じゃないですか?」と言う。

 母乳とミルクの混合育児をしているぼくらにとっては、「どれくらい母乳を飲んだかな?」と考えてもわからないことを考えるよりも、ベビースケールでさっと計測する方がラクなのだ。


 ただそんな「考えないことのデザイン」にも副作用がある。考えないからこそ、考えない選択をしていることを忘れてしまう。もしくは意識さえもしていない。特にぼくは、考える仕事をしている反動なのか、日常生活の中で、無意識のまま暮らしてしまっている領域が多い。

 真っ先に思い浮かぶのは、食だ。妻に「お昼どうする?」と聞かれても、なかなか明確に返事ができない。じっさい冷蔵庫にあるものなら何でも美味しく食べられてしまう。
 いちばん困ったのは妻が妊娠中、ぼくがメインで料理をつくっていた期間。考えても、何を食べたらいいのか決められないのだ。じぶんがいかに考えていないのか、そして妻に頼っていたのかを知り、愕然とした。

 とりわけ盲点になりやすいと感じたのは、人が「何かを考える」と決めた背後に、「それ以外は考えない」という無意識な決断が隠れているとき。たとえば、ぼくがコピーライターと名乗り、ことばを考える人だと宣言すると、ことば以外での解決への思考が疎かになることがある。

 ただそれを言い訳に、日常の中で食について考えず、妻に依存するというのは、また別の話。生きる上で、もっと考えたほうがいいし、きっと考えたほうが豊かな人生になる。たまにでよいから、じぶんが「考えない」と決めてしまっていることを棚卸しすることにした。

 いまいちど「考えないデザイン」でラクにできること何か?
逆に、考えないことさえ忘れてしまっているけれど、本当は考えたいことや、考えた方がいいことは何か?時間も体力も有限だからこそ、その優先順位をつけてみると、じぶんらしい日常が過ごせるかもしれない。 

 最後に、考えない習慣のデザインで、生活が一変したことを紹介して終わりにしたい。昨年から、ぼくはパタゴニアの服だけで暮らしている。半袖、長袖、トレーナーをそれぞれ3〜4色ずつ揃えて、年中そのローテーション。

 ファッションへの情熱が乏しいので、中途半端に服を選ぶよりも、むしろ自己表現につながっているとさえ感じている。どんな服を買うか迷うこともなくなり、出費もおさえられる、まさに理想の「考えない」ファッションシステム。

 ただこれにも、ひとつ問題がある。パタゴニアの店舗に服を買いにいくさい、全身パタゴニアで入っていくことに躊躇いを感じるときがある。きっと、これこそ考えてはだめなやつだ。

©︎kengai-copywriter 銭谷 侑 / Yu Zeniya
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