「抱っこ恐怖症」の克服 / 育休11週目

「抱っこ恐怖症」の克服 育休11週目


 ぼくは「抱っこ恐怖症」だ。
人生の中で、なんどか赤ちゃんを抱っこさせてもらう機会があったが、その度に泣かせてしまった。笑顔だった赤ちゃんたちは、ぼくが抱くとワンワンと泣き出してしまう。

 もしや赤ちゃんが嫌がる超音波でも出ているのだろうか。30歳をこえてからは、抱っこすることを自ら遠慮するようになった。

 じぶんのこどもを、はじめて抱っこしたときも例に漏れず。妻から受け渡してもらうと、息子は全身でドタバタしながら嫌がるので、すぐに妻の胸のもとに返してしまった。そこから、ぼくの「抱っこ恐怖症」克服にむけた探求がはじまる。

 まずは、抱っこの仕方について育児メディアやYouTubeで調べ、実践してみた。けれど、どれを試してみても、しっくりこない。付け焼き刃のノウハウでは、筋金入りの「抱っこ恐怖症」には太刀打ちできないと悟る。もっと根本的なところまで、踏み入れねばならないようだ。

 そもそも人が「さわる」という行為は何なのか。「触覚」や「肌」についての文献を漁りはじめる。世界は広い、きっとぼくと同じような抱っこ音痴はいるはず。『触楽入門』『“手”をめぐる四百字』『子供の「脳」は肌にある』などを乱読していく中で、『手の倫理(伊藤亜紗著))』という本と巡り合う。

 触覚に対する2つの動詞。「さわる」と「ふれる」のちがいから、よき生き方ならぬ、よきさわり方・ふれ方とは何なのかに迫る本だ。

 「さわる」は、さわる側からさわられる側に、一方的に伝達されるコミュニケーションで「モノ的」な関わり。
 「ふれる」は、相互的に生成されるコミュニケーションで「人間的」な関わり。

 後者の「ふれる」という行為は、相手のからだに入り込むような関わりで、互いのからだについての情報を拾いながら、共鳴的なコミュニケーションが生まれるという。信頼して相手に身を預けたぶんだけ、相手のことを知ることができる、そんな人間関係でもあると。


 一昨年、近所の乗馬クラブで遊んだ体験を思い出す。
同行した妻と、妻の母は、はじめてでも馬に乗ることができた。ぼくだけは、うまくいかない。インストラクターの方から「リラックスしてくださいね。あなたが怖がっていると、馬も怖がります。ぜんぶ伝わるんですよ」と諭された。

 うまく乗れるかなという恐怖心や緊張感が、「ふれる」を通してすべて馬に伝わっていたのだと思う。ことばが通じなくても、ことば以上に感情が精彩に伝わってしまう。

 閑話休題。赤ちゃんの話に戻ると、「触覚」は五感のなかでも、いちばん最初に使われる感覚だ。じぶんやセカイを知るという行為は、羊水の中での触覚からはじまる。また生まれて数ヶ月間の視力は、0.1以下。つまり赤ちゃんにとって人間関係は、接触面にあるのだ。


 もう一度、息子を目の前にする。「ふれる」という意識で、背中にそっと手をまわす。抱きあげる・抱きあげられるという一方的な関係ではなく、お互いに「ふれあう」なかで、きもちいい場所を探ることだけを意識する。

 視覚情報には頼らず、頭もからだもなるべく隙だらけにして、何でも「受け入れるぞ」という状態でふれていく。そうすると「あっここかも」という、きもちいいゾーンが見つかり、息子もぼくも落ちつく体験へと到達する。

 おもしろいのは、そのゾーンが毎回変わることだ。息子もぼくも、日々変化しているからだと思う。見た目ではちがいがわからなくても、ぼくらのからだや関係性は変わりつづけているのだ。

 
 「目を通して会う息子」と「手を通して会う息子」はちがう。まだことばは通じないけれど、いや、ことばが通じない環境だからこそ、ことばになる手前の感情や感触、「ことばにならないことば」が育てられていく。親にとって子育てとは、そんな体験でもあると思い知らされる。


 ちなみにこの育休エッセイも、キーボードを「さわる」ではなく「ふれる」ように書いてみた。いつもより、ぼくの血脈を感じる文章になっているだろうか?どうやら、パソコン相手ではあまり意味がなさそうだ。

©︎kengai-copywriter 銭谷 侑 / Yu Zeniya
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