約1ヶ月ぶりに、息子が泣いた。
「えあゃぁあ」
今までは、泣きたくても口や鼻がチューブで塞がれており、声が出せずに涙を流すことしかできなかった。
身体につながっていたチューブや拘束器具が、一つずつ外れていき、ようやく自然呼吸の練習をし始められたのだ。泣き声、しゃっくり、あくび、げっぷ、息子から発せられるすべての音が新鮮で、心から嬉しい。
こどもが泣くのを見て嬉しいだなんて、ふつうとは逆かもしれないけど。なんども何度も、スマホの画面が少し削れるのではないか、というくらいじっと観察する。何かを見ようとすると、じぶんが見たいものしか見えなくなってしまいそうなので、「見えてくることを見逃さないぞ!」という意識で見てみる。
そうすると、口ではなく、喉で泣いているということがわかる。
ぼくはてっきり、人は口で話しているというイメージでいた。泣き声は、もっと喉の奥の方からやってくる。喉の奥から発声するので、息を吸いながらも「ぐへっ」と泣くことができる。じぶんもやってみると、大人は口発音になっているのか、息を吸いながらは発音しにくい。
話は変わるが、育休中は子育てにどっぷりと浸かり、空き時間で「じぶんが距離を置いてきたこと」にあえて触れてみる時間にしている。
たとえば「音楽」。破壊的に音痴なのだが、子守唄で練習してみることに。もうひとつは「語学」。外国語の美しさを知ることで、日本語の美しさを再発見したいという好奇心からだ。
なんとなく喉に興味を持ち、調べていく中で「英語喉」という本と出会った。ざっくり要約すると、日本語は口を響かせて発音するが、英語は喉の奥で発音する。だから喉発音の練習をすることで、英語の発音もリスニングも向上するという内容。ちなみに赤ちゃんや他の動物は、喉発音が多いらしい。
「えぁあぇあぁ」
改めて、泣いているこどもを見てみても、喉で発声している。一音ごと区切るのではなく、息に乗せて流れるように発声している。ふと「英語喉で歌うと、どうなる?」と思いたち、移動中の車内で試してみる。
もともとドレミファソラシドさえも途中で崩壊する不安定さだった。ドレミファソまではいけるのだけど、ラシドで変な裏声になり、音階がつながらない。喉を開き、音をつなげるように発すると、いつもより気持ちよく歌うことができる。今までは口で、一音一音を単発で発声しようとしていたのが、不安定になる原因だったのかもしれない。
ぼくの2つのコンプレックスは、「喉への意識」というひとつの要因から生まれていた。
いくつかの問題の裏には、それを生み出す本質的な課題が眠っている。これは、さまざまなことにも言えそうだ。裏を返せば、「優れたアイデアは、複数の問題を一気に解決する」とも言える。じつはこれ、任天堂のゲームプロデューサー宮本茂さんの金言そのものでもある。ことばの意味が腑(どちらかというと喉?)に落ちていく。
赤ちゃんを観察して、こんなことを感じ、試してみるじぶんは、すこし変な父親なのかもしれないけど。
仕事では、思考や意味で解決しようとすることが多いので、身体や感性に当てもなく向き合える今の時間は、発見の宝庫だ。こどもといっしょに生きることは、なんて創造的で幸せな時間なのだろう。
まだスマホの画面越しでしか会うことはできないけど、じっさいに会ったら、どんなことに出会えるのか。出会い直せるのか。もっともっとこどもらしく、じぶん自身も変わっていくのを楽しみたい。
©︎kengai-copywriter 銭谷 侑 / Yu Zeniya
ほぼ毎週「育休エッセイ」更新中 → 一覧はこちら