1月に40歳を迎えてそうそう、椎間板ヘルニアになった。
不惑とは、迷いなく腰をすえるというよりも、そもそも動けなくなることだと悟った。
これは「生活の土台を見つめなおせ」という身体からのメッセージだと受け取って、仕事の数を絞ってみたり、まいにち近所を小走りするようにしたり、改めて「おれは何のために、ことばを書いているのだろう?」と内省してみたりした。
人に褒められたいとか。
有名になりたいとか。
お金持ちになりたいとか。
そういう野心は創作の原動力にはならなくて。
(いまの自分にとって、それらは創作を枯らしてしまうものでさえある)
びりびりあーあーと神経痛をスパイスにしながら逡巡した結果。
「愛するために書き続ける」
というのが、身体の奥深くにある欲求なのだと、しっくりきています。
なにを隠そう、「妻が好きすぎるので会社やめまーす」と夫婦で電通を退職してから、はや10年。
都心から地方に移住したり、家族がひとり増えたり、顔の半分が髭になったり、人生の景色は大きく変わったが、今だに「妻、妻」と言ってる日々は相変わらず。
けれど「なぜ好きなのか?」を考えてみても、理屈がなくて言語化できない。むしろ、ことばにならない直感を選ぶという行為にこそ、愛らしきものが生じるというか。
ことばにできないからこそ愛なのに、でも愛とは何かみたいなものをことばにしたいと願う、すばらしき自己矛盾。
たとえば、ある晩秋の夕暮れ。
息子と田舎のだだっぴろい公園の丘を登り、山吹色に輝く草たちがサーと波のようにゆらめくなか、風を切るように息子とがむしゃらに走り抜けるときに感じた、神々しさすら覚える感覚。
そういう瞬間に、全身の細胞から「あぁこの景色を、この身体感覚を、ことばで残したい」という強い衝動にかられる。
それは、承認欲求とかSNSのいいね!数とか、一瞬で熱し冷めるものではなくて、一生枯れることのない水源そのもの。
ある人と深く出会うことで、人はどこまで創造的に、瑞々しく世界を見ることができるのか?
その結果、生まれたことばを誰かへと手渡していく。そんな営みを、きっとやりたいのだと思う。
一方、なんでもない日常では、仕事で余裕がなくなると妻にぶっきらぼうな言葉を返してしまい「なんでそういう言い方するの?」と呆れられたり、息子に「とおと、ハナシ聞いてない!ちゃんと聞いて!」と叱られたり、まだまだまだ精進が必要そうです。
愛なんぞ、自分の身の丈に合わないことを語りながらも、妻や息子には腰砕けな日常。両方ひっくるめて、これが不惑なのか、ただの病なのか、壮大なるこじらせなのか。
やっていくぞ、40代!
©︎kengai-copywriter 銭谷 侑 / Yu Zeniya
